Storyストーリー

1986年 マスターズ

ニクラウスが上げたメジャー18勝の内、最も感動を与えたのは1986年マスターズでの最後のメジャー優勝です。
ニクラウス自身もこの勝利については次のように語っています。

「1986年のマスターズがなかったら私のキャリアはどうなってしまっていただろう。18勝ではなく17勝しかできなかったら、私は自分のキャリアに満足できただろうか?」

1980年の全米プロを最後にニクラウスは優勝から遠ざかっていました。1981年マスターズ、1982年全米オープン、1983年全米プロといずれも2位に甘んじ優勝を逃しました。そして1985年。全米オープンで予選落ちをすると、1962年以来、本選出場を続けていた全英オープンでも初めての予選落ちを経験することになります。

当時のメディアは一斉にニクラウスの限界説を唱え始めました。「ゴールデンベア冬眠へ」「錆びついたクラブ」「ニクラウス時代終了」。ところがニクラウスはここでへこむことなく逆に奮起します。目前に迫ったマスターズに照準を合わせ、かつてのゴルフの師であるジャック・グラウトと共にスイング再生に臨みます。

結果、グラウトは手首の使い過ぎを指摘します。トップで手首のコックを使い過ぎるため、それがダウン・スイングへの切り返しを微妙に遅らせてスイングに悪影響を与えていたのです。

1986年4月、マスターズが開幕しました。3日目を終了し、トップはグレッグ・ノーマンの6アンダー。ニクラウスは2アンダー。そして最終日15番ロングホール。この時点でのトップはセべ・バレステロスの7アンダー。ニクラウスは5アンダーまで来ていました。

「この試合に勝利するにはここでイーグルを取る!」

強い思いを胸にニクラウスは会心のドライバーを放ちます。残り202ヤードのセカンド、4番アイアンで放たれたショットはピンにまっすぐ向かい、カップから12フィートの地点へ落ちました。この試合でキャディーを務めた長男のジャッキーと慎重にグリーンを読みパットすると、ボールは狙い通りのラインを描いて見事イーグル!まさしく伝説を作ったパットでした。
続く16番、17番も勢いに乗ってバーディを決め、最終18番は手堅くパー。9アンダーのトップでプレーを終了しました。後続ではグレッグ・ノーマンが14番から17番まで連続バーディの猛チャージを見せていましたが、18番のセカンドでギャラリー席に打ち込む痛恨のミスをし、このホールボギー。こうしてニクラウスの18番目のメジャー勝利が確定しました。46歳にしてのメジャー史上最年長の制覇でした。

文字通り逆境を跳ね返しての優勝にメディアはこぞって書き立てます。

「Jack is back ! (ジャックが帰って来た!)」

復活の優勝を成し遂げて、キャディーを務めた長男のジャッキーと抱き合うニクラウス。すべてのギャラリーが彼らを祝福していました。まさに家族に対する愛情あふれた感動のシーンでした。

1973年 全米プロ

ジャック・ニクラウスを紹介する写真の中で、時々見られるのがこの写真です。彼の息子らしい少年を抱きかかえてグリーンを歩くニクラウス。この写真に込められたエピソードをご紹介したいと思います。

1970年の全英オープンに優勝したニクラウスは、プロ通算メジャー8勝目を上げます。これにアマチュア時代に獲得した2回の全米アマを加えると、プロ・アマ通算メジャータイトル10勝となり、救聖といわれたボビー・ジョーンズの持つ13勝の記録にあと3つと迫ります。

そして1971年全米プロ、1972年マスターズ、全米オープンと優勝し、ついにボビー・ジョーンズの記録に並びます。それまでその記録のことはあえて意識しないよう心掛けていたニクラウスですが、ここにきてようやく記録更新の意欲に燃えてきました。

ところが強く意識すればするほど勝てなくなるのもゴルフ。1973年、ニクラウスはこの年マスターズ3位タイ、全米プロ4位タイ、全英オープン4位といずれも好位置につけながら優勝にはあと一歩届きません。そして彼にとってこの年最後のチャンスとなる全米プロが開催されました。

この年の全米プロはニクラウスの出身地であるオハイオ州にあるカンタベリー・ゴルフクラブで行われました。

そのため彼の家族や友人、知人、親戚が応援のため大勢駆けつけました。舞台は2日目のラウンド後の18番ホール。

この日68の好スコアをマークしたニクラウスでしたが、18番ホールでは彼の4人の子供たちがプレーを観戦していました。ニクラウスがホールアウトした時、長男のジャッキーが当時4歳の三男のゲーリーに言いました。

「ゲーリー見て、お父さんがあそこにいる! 行って抱っこしてもらいなよ。」

ゲーリーは喜んでジャッキーの言葉に従い18番グリーンに向かって駆け出しました。プレーを終了して歩き出していたニクラウスは驚きながらもゲーリーをすくいあげ片手で抱えたのです。その時取られたショットがこの写真です。大好きな父親に抱っこされて幸せいっぱいのゲーリーと、戸惑いながらもうれしさを隠せないニクラウスの父親らしい表情が印象的です。ボビー・ジョーンズの記録を追い、その更新を目指していたニクラウスですが、のちに彼はこう言っています。

「ボビーの記録更新よりはるかに価値あるものを手に入れたようだった。
本当に嬉しかった。」

この2日目のアクシデントが幸いし気楽な気持ちになれたのか、ニクラウスはこの全米プロで見事優勝し、ボビー・ジョーンズの記録を塗り替えます。そしてこのショットを捉えたカメラマンも、タイムリースナップショットの賞をもらったそうです。

1980年 全米オープン

日本のゴルフファンにとって最も印象に残っているニクラウスのエピソードと言えば、何といっても1980年ニュージャージー州のバルタスロール・ゴルフクラブで開催された全米オープンでの青木功選手とのデッドヒートでしょう。

この前年の1979年、39歳になっていたニクラウスは、1962年のプロ転向以来17年間続けていた連続ツアー勝利が途切れてしまいます。誰にでも訪れる肉体的な曲がり角を迎えており、そのためニクラウスの代名詞ともいわれるアップライトで豪快なスイングに安定感を欠き始めていました。

そこでニクラウスはかつての師、ジャック・グラウトを訪ね、年齢にあったスイング改造を決断します。目指したところはフラットで深いスイング。肩を十分に捻転させることでダウンからインパクトにかけてのクラブヘッドの動きをよりシャロ―にすることでした。

そして迎えた翌1980年の全米オープン。ニクラウスは予選ラウンドで当時の日本のトッププロ青木功選手と同組となります。スイング改造が奏功し、ニクラウスは初日7アンダー63のスコアでトップに立ちます。青木プロは2アンダーの68。

同じ組み合わせの2日目。ニクラウスは1オーバーの71、青木プロは4アンダーの66。予選が終わった時点でニクラウスがトップを堅持し、青木プロが2打差の2位でそれを追う展開となりました。

3日目。最終組で両者は三度一緒のラウンドとなります。パープレーの70でホールアウトしたニクラウスに対し、青木プロは上がり17番、18番ホールで連続バーディーを決め、ついにニクラウスに追いつきます。

全米オープン最終日。この日を含め4日間同組でのラウンドとなった両者は、最終日にふさわしいマッチプレーを展開します。アウトでニクラウスは1バーディー、青木プロは1ボギーを打ち2打差となります。インに入り互いに1つずつバーディーを奪い、舞台は17番の630ヤードのロングホールへ。

正確なアプローチと独特のパットで追撃してくる青木プロを相手にニクラウスはここで大きな決断を迫られます。すでに青木プロは3打目をカップから5フィートの距離につけ、バーディーを確実なものとしていました。ニクラウスは残り88ヤード。何としてもピンそばにつけバーディーを取らねばならない場面です。

ピッチングかサンドウェッジか? ニクラウスは迷った末にサンドウェッジを手にします。勝負時にはアドレナリンが強く出るため、より小さいクラブを選んだのです。放たれたショットはピン右22フィートの地点へ。ニクラウスは後にこのショットを

「この年で一番しびれたショット」

と言っています。
勝負はまだ続きます。決して楽ではないバーディーパットでしたが、ニクラウスは慎重にラインを読み、これを執念でねじ込み見事バーディー。最終ホールでも互いにバーディーを奪い合い、ニクラウスが2打差のまま優勝しました。

スイング改造の末たどり着いた2年ぶりの優勝に「ヤングマン・ニクラウス」と表彰式で紹介されたニクラウス。勝負に対する情熱と冷静さが彼に復活をもたらしました。尚、この時の青木プロのメジャー2位という成績は、いまだに更新されることのない日本人選手のメジャー最高記録として輝いています。

ニックネーム

ゴールデンベアの愛称で親しまれているニクラウス。さて彼はいつごろからゴールデンベアと呼ばれるようになったのでしょうか?

「実は私はゴールデンベアと呼ばれるずっと前からゴールデンベアだったんだよ。」

この問いに対してニクラウスはこう答えています。どういうことでしょうか?

ニクラウスは学生時代からさまざまなスポーツに親しんでいました。オハイオ州のアッパーアーリントン・ハイスクールに進んだ彼は、バスケットボールに熱中します。実はこの時の彼のチームのニックネームがゴールデンベアーズだったのです。

(アッパーアーリントン・ハイスクール時代のニクラウスのバスケットボールチーム ゴールデンベアーズ 最後列右から3番目がニクラウス)

「だけどこれはハッピーな偶然にすぎません。本当に私がゴールデンベアと呼ばれるようになったきっかけはオーストラリアにあります。」とニクラウスは続けます。

1960年代に入り活躍し始めたニクラウス。彼が最初のオーストラリアツアーに行った時のことです。オーストラリアのメルボルン・ヘラルド紙のスポーツライターであるドン・ローレンスがニクラウスについての印象を問われた時、次のように語りました。

「ニクラウスは大きくて強くて、
まるで抱きしめたくなるゴールデンベアのようだ。」

これがきっかけでゴールデンベアの愛称は一気に広まり、1963年ごろまでにはすべてのメディアがこのニックネームを使うようになりました。以来、ニクラウスは40年以上に渡りゴールデンベアの愛称で親しまれています。

マクレガー3番ウッド

「誰にでも手放すことのできないクラブがあるのではないでしょうか。」

人一倍クラブを大切にしているニクラウスはこう語ります。現役時代の彼にとって手放すことができなかったクラブ、それは長年愛用したマクレガーのトミーアーマーモデルの3番ウッドです。

ニクラウスは18歳のアマチュアの時にこのクラブと出会って以来、プロになってからもこれを使い続けてきました。
当時のスタンダードな長さで、ヘッドはパーシモン。ウィングの形をしたプレートが取りつけられており、そこには彼の名前が彫られていました。

よほどのお気に入りだったのでしょうか、何度もヘッドが壊れては修理をしていたものの、グリップだけは1958年から1983年まで変えようとはしませんでした。当時のグリップはレザーを巻いていたため、長年の使用によりグリップがツルツルしていましたが、それでもよく手に馴染んでいたそうです。ツアーで使い続けられ、メジャーを含め多くのタイトルをニクラウスにもたらしたこのクラブは、まさにニクラウスのより良き相棒と言えるでしょう。

そんな3番ウッドでしたが、さすがにグリップを変えなくてはならない時期がやって来ました。ニクラウスも決心してグリップを変えたのですが、なぜか今までのものとは違ったクラブになってしまいました。長年、手になじんだ感触が彼に違和感を覚えさせていたのです。
それでもニクラウスはこのクラブをツアーには必ず持っていきました。そしてついに、変更したグリップのクラブで最大のメジャータイトルを手に入れるチャンスが訪れます。

1986年マスターズ最終日。オーガスタナショナルコース最終ホールの18番405ヤード、パー4。優勝に向けてチャージをかけるニクラウスは、このホールをパーで上がるとハーフ30のスコアを記録し大きく優勝に近づきます。握ったクラブはマクレガー トミーアーマー3番ウッド。放たれたショットはフェアウェイに向かって一直線の最高のショット。見事このホールをパーとして、あの奇跡のメジャー18勝目を上げたのです。ニクラウスはこう言っています。

「こいつはやはり私を失望させることはなかったな。」

伝説の始まり パート1

1962年、この年22歳でプロ転向したニクラウスですが、ここまでの17試合は勝利を上げることが出来ませんでした。
当時のアメリカのゴルフ界ではアーノルド・パーマーが絶大な人気を誇っており、その豪快で攻撃的なゴルフは、アーニーズ・アーミー(アーノルド親衛隊)と呼ばれる熱狂的なファンを虜にしていました。そして迎えた6月の全米オープン、場所はパーマーの地元から40マイルの近距離にあるペンシルバニア州のオークモント・カントリークラブです。

大会主催者の取り計らいによりニクラウスは初日、2日目をパーマーとともにラウンドします。アマチュア時代から注目されていたニクラウスですが、ここはパーマーにとってのホーム、しかもスマートなアメリカンヒーローであるパーマーに対し、短髪で100キロを超える風貌のニクラウスはまさに敵役といったところでした。

パーマーがバーディーを取るといつまでも拍手が鳴りやまず、一方ニクラウスがバーディーパットを狙おうとしようものなら、飛び上がったり、足を踏み鳴らしたりと、ニクラウスは度々アーニーズ・アーミーからアウェーの洗礼をうけます。

2日目を終了した時点でパーマーは3アンダーのトップタイ、ニクラウスはイーブン。続く3日目でニクラウスはパーマーとの差を1打詰めた結果、この日を終了した時点で、パーマーは2アンダーのトップタイを堅持し、ニクラウスがそれを2打差で追う展開となりました。

最終日、パーマーのチャージが始まります。2番と4番でバーディーを決めると何と7番までにニクラウスに5打差をつけます。ところが優勝を意識し始めたのか9番パー5の3打目をミスショットすると、グリーン上でもパーパットをショートし、このホールをボギーとしてしまいます。これに勇気づけられたニクラウスは、この後のホールでチャージをかけ、ホールアウトした時点でトータル283の1アンダーとしてパーマーを待ちます。

最終18番ホールのフェアウェイにパーマーが現れました。ここまでのスコアはニクラウスと同スコアのトータル1アンダー。手にしているのは4番アイアン。

「何が何でもここでバーディーを取る!」

強い決意を胸に放たれたショットは、ピンから10フィートの地点に見事2オン。アーニーズ・アーミーたちは割れんばかりの拍手をパーマーに送ります。

伝説の始まり パート2

1962年6月、バージニア州オークモント・カントリークラブで開催された全米オープン最終日18番ホール。すでにトータル283の1アンダーでホールアウトした22歳のルーキー、ジャック・ニクラウスに同スコアで並ばれたアーノルド・パーマー。手にした4番アイアンで放たれたショットはピンそば10フィートの地点に2オンしました。

アーニーズ・アーミーたちの歓声の中グリーンに上がったパーマーは、慎重にラインを読み、膝を折ってパットの構えに入ります。このバーディーパットを入れれば念願の地元優勝が飾れます。静寂が訪れ、誰もが次の瞬間に上げる歓声のための準備をしていました。ところがパーマーが打ち出したパットはわずかに曲がり切らずカップをかすめ過ぎて行きます。期待がうめき声に変わり、この瞬間ニクラウスとパーマーは18ホールのプレーオフで再度対決することになったのです。

翌日のプレーオフの1番ホール。ショット、パットに好調なニクラウスは、いきなりパーマーを30ヤードオーバードライブするショットを放ちます。かたやパーマーは、このホールをボギーとし、ニクラウスが1ストロークリードします。その後ニクラウスが4番、6番でバーディーを重ねる一方、パーマーは6番をボギーとし、両者の差は広がります。

しかしバックナインに入った11番、12番でパーマーは連続バーディーを奪いチャージをかけてきます。こうして二人は、ニクラウス2ストロークのリードで18番最終ホールにやって来ました。

二人にとって90ホール目となる最後の舞台でしたが、ニクラウスはティーショットをミスし、パーマーはセカンドをミスしてしまいます。第三打の勝負となり、ニクラウスは9番アイアンでピンそば12フィートの地点にオン。
それを見ていたパーマーは考え抜いた末、ピンを狙ってチップショットを放ちます。しかしボールはピンをかすめそうになりながらも、グリーンの反対側にはずれてしまいます。これで勝負は決まりました。

しかしドラマは続きます。パーマーはボールを寄せに行きますが、ニクラウスのファーストパットがカップから20インチに寄ったのを見ると、パーマーはニクラウスのそのボールマーカーを拾い上げてしまいます。本人にとってはゲームセットの意思表示だったのかも知れませんが、このプレーオフはマッチプレーではなくストロークプレーであるため、ニクラウスはマーカーを置き直して最後のウィニングパットを入れました。

後日パーマーは、この時のニクラウスについてこう語っています。

「あの大きいやつは今、ケージから抜け出したところだ。
みんなやつを追いかけた方がいい。」

この二人のライバル関係は、その後1966年ごろまで続きます。ともにアメリカのゴルフ伝説を作った二人の対決はこうして始まったのです。

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